夢の中古市場
夢が売買できるようになったのは、たしか二〇三一年の春だった。
最初は医療技術だった。
脳波記録装置の精度が向上し、人間の夢を映像として保存できるようになったのである。
ところが当然というべきか、人類はそれを医療より先に娯楽へ使った。
夢配信。
夢サブスク。
夢ライブ。
美少女アイドルの夢。
殺人鬼の夢。
犬の夢。
タコの夢。
果ては「夢を見ている夢」専門の配信者まで現れた。
世界は急速に狂い始めた。
だが最も儲かったのは中古夢市場だった。
人間は、他人の見た夢を中古で買うようになったのである。
理由は簡単だった。
新品の夢は高い。
有名人の夢など、一晩分で十万円を超える。
だが中古夢なら安い。
誰かが一度視聴した夢データは価値が下がる。
だから庶民は中古夢を見る。
夢にもリユース時代が来たわけだ。
私はその頃、中古夢査定士をしていた。
三十二歳。
独身。
中央夢流通センター勤務。
仕事は単純だった。
持ち込まれた夢の価値を判定する。
感情密度。
視覚鮮明度。
物語性。
性的要素。
死の気配。
飛行感覚。
そういうものを数値化する。
夢にも相場があるのだ。
一般に高値が付くのは「初恋夢」と「落下夢」だった。
逆に価値が低いのは「歯が抜ける夢」である。
市場に多すぎる。
人類はそんなに歯が心配なのかと思う。
ある月曜日、一人の老人が店へやって来た。
薄いグレーの帽子をかぶっていた。
痩せている。
目だけ妙に若かった。
「夢を売りたい」
彼は言った。
私はケースを受け取った。
古い記録媒体だった。
最近では珍しい。
「かなり昔の夢ですね」
「四十年前だ」
老人は答えた。
「未再生だよ」
私は少し驚いた。
夢市場では、未再生夢は高価値である。
誰にも見られていない夢には独特の鮮度があるのだ。
私は査定装置へデータを接続した。
画面に警告が出る。
『高感情密度夢』
珍しい。
私は再生を開始した。
その瞬間、世界が変わった。
夢の中で、私は海辺に立っていた。
夕方だった。
赤い空。
遠くで波が鳴っている。
若い女がこちらを見ていた。
白いワンピースを着ている。
顔はぼやけて見えない。
だが私は、その女を愛していた。
夢の中の私は、確かにそう理解していた。
女は何か言った。
聞こえない。
波の音だけが大きい。
そして突然、女の身体が砂になって崩れ始めた。
指先から。
腕。
顔。
私は叫んだ。
だが声が出ない。
世界中の音が消えていた。
最後に残ったのは、赤い夕焼けだけだった。
私は再生装置を外した。
全身が汗だくだった。
査定室の蛍光灯が妙に白い。
老人が静かにこちらを見ている。
「どうだった?」
私はしばらく答えられなかった。
夢の余韻が異常に強かった。
まるで、自分の記憶みたいだった。
「……高値になります」
やっとそれだけ言った。
老人は少し笑った。
「そうか」
「あの女性は?」
「知らない」
「え?」
「現実には会ったことがない」
老人は肩をすくめた。
「ただ夢に出てきただけだ」
私は妙な寒気を覚えた。
夢市場では、現実に存在しない人物の夢は珍しくない。
だが普通、そこまで感情は乗らない。
夢の中の感情は曖昧だ。
だからこそ売り物になる。
他人事として楽しめる。
だがあの夢は違った。
痛みが本物すぎた。
私はその日、仕事が終わっても落ち着かなかった。
帰宅後も、白いワンピースの女が頭から離れない。
夢の残響。
職業病ではある。
他人の夢を大量に見ると、自分の記憶との境界が曖昧になる。
だから査定士は短命だ。
夢酔い。
人格混線。
記憶汚染。
業界ではよくある。
翌日、私はデータベースを調べた。
老人の名前。
天野修司。
七十三歳。
元映画監督。
代表作なし。
失踪歴あり。
妙な経歴だった。
特に気になったのは、三十年前の精神病院入院記録である。
症状欄にはこう書かれていた。
『夢と現実の区別不能』
私は嫌な予感がした。
その夜、私は夢を見た。
海辺だった。
赤い夕焼け。
白いワンピース。
女が立っている。
今度は顔が見えた。
だが問題は、その顔が私自身だったことだ。
私は飛び起きた。
心臓が痛いほど鳴っている。
最悪だった。
中古夢には稀に感染性がある。
視聴者の夢へ侵入し、自己増殖する夢。
違法ではない。
なぜなら法律が追いついていないからだ。
私は翌朝、会社へ相談した。
上司は眠そうな顔で言った。
「よくある」
「いや、感染性ですよ」
「人気出るぞ」
「は?」
「感染夢は市場価値が高い」
私は絶句した。
上司は続ける。
「拡散する夢は儲かるんだ」
完全に狂っていた。
数日後、その夢は中古夢市場へ流通した。
タイトル。
『赤い海辺』
価格は異常に高騰した。
口コミが爆発したのである。
『忘れられない』
『本当に恋をした気分になる』
『人生が変わった』
レビュー欄は熱狂していた。
同時に奇妙な噂も広がった。
あの夢を見た人間は、現実への興味を失う。
会社を辞める。
恋人と別れる。
海へ行く。
夕焼けを見続ける。
そんな噂だった。
一週間後、社会問題になった。
中古夢中毒者が急増したのである。
特に『赤い海辺』の感染力は異常だった。
人々は夢を見終えると、もう一度見たくなる。
そのうち現実より夢を優先する。
政府は規制を始めた。
夢取締局が発足。
違法夢の摘発。
夢視聴年齢制限。
だが遅かった。
夢は既にコピーされ、拡散し、匿名サーバーを漂っていた。
人類は他人の夢をやめられなくなっていた。
そしてある日、私は気づいた。
あの女の顔が変化している。
視聴するたびに違う。
見る人間自身の顔になるのである。
つまり『赤い海辺』は、見る者自身を愛させる夢だった。
最悪のナルシシズム兵器である。
人々は夢の中で、自分自身へ恋をする。
だから現実へ戻れない。
現実の他人より、夢の自分の方が完璧だからだ。
私は戦慄した。
天野老人は、これを知っていたのか。
私は彼を探した。
だが既に失踪していた。
アパートは空だった。
ただ机の上にメモだけ残っている。
『人間は他人を愛するより、自分を愛する方が簡単だった』
『だから文明は滅びる』
私はその紙を握りしめた。
窓の外では、人々が歩いている。
みんなイヤホンをつけ、夢視聴装置を装着していた。
歩きながら夢を見ているのだ。
現実の街は静かだった。
誰も会話しない。
誰も他人を見ない。
みんな自分自身の夢へ沈んでいる。
数ヶ月後、日本経済は崩壊した。
労働者が減ったからである。
人々は夢を見る方を選んだ。
政府は夢禁止令を出した。
だが無意味だった。
夢は人類最古の娯楽なのだ。
禁止できるわけがない。
最後に残った産業は中古夢市場だけだった。
誰も現実を生産しない。
ただ夢だけが流通する。
私は今も査定士を続けている。
査定する夢は、どれも似ている。
赤い海。
夕焼け。
自分自身。
人類はたぶん、もう現実へ戻らない。
だが時々、私は思う。
そもそも現実とは何だったのか。
他人と関わり、傷つき、退屈し、働き、生きること。
それは本当に、夢より価値があったのだろうか。
昨夜、私もまた『赤い海辺』を見た。
白いワンピースの女が立っていた。
女は私へ微笑む。
そして静かに言った。
「おかえり」
私は少し泣いた。
たぶん、もう駄目なのだと思う。